活字離れその4
前回の記事で「活字離れ」という言葉の意味が釈然としなくなってきた。そこで、Google で検索してみたところ、下記の記事が意味を再確認するために有効のように感じたので取り上げてみる。
前半部分は、ネットと本の比較を行っている。「機能的には大差ない、使われ方の問題(違い)だ」というのが著者の主張だろう。双方向性の問題はネットだからと一概に言えることではなく、媒体やサイトの性格(膨大な文書を持つ技術情報のWebサイトとメールや掲示板では性格が違うだろう)によって異なると思われる。
しかし現状では本がすべての情報を文字で表現しているのに対して、Webは絵やレイアウトなどの視覚に訴える部分が大きい。そして双方向のコミュニケーションツールであるから文章量はどうしても少なくなる。だから「現状のWeb コンテンツのほとんどは本の代わりにはならない」というのは正しい。目指しているものが違っているからだ。
Webが「絵やレイアウト」を自在に扱えるようになったのは最近のことであり、それまでは本(雑誌を含む)以上に文字主体の代物であった。実際、引用元のページも、このページも文字ばかりである。使われ方という意味では、Webができた当初から今日まで(サイトの性格にもよるが)「文字」主体のメディアだし、これからもそうだと思う。本質は、絵と文字の比率の問題ではなく「まとまった」文章か「細切れ」の文章かという違いの問題らしい。
結論。「活字を読め」というのは「まとまった文書を読め」ということであり、いくらチャットやメールに精を出してもそれは活字離れを食い止めていることにはならない。しかしだからといってネットでは活字離れを食い止められないというのも間違いだ。内容によっては十分活字の代わりになる。
つまり、「活字離れ」とは「長いまとまった文書を読まない」ということである。チャットやメールを読み書きすることは確かに「活字」を扱っていることになるが、だからといって「活字離れ」を免れているわけではない。単に読むか読まないかではなく、どのように読むかという読み方の問題である。「紙」か「電子媒体」か、オンラインかオフラインか、素人の書いた文章かプロの書いた文章かの違いでもない。何等かの媒体に書かれた「長いまとまった文書」があり、それを長いまとまった文書として読むことにより始めて「活字離れ」でない状態になる。
※尚、著者は得失、善悪の判断は行っていない。従って、以下の部分は誤解であった。(12/14加筆訂正)
この部分が著者の主張らしい。なるほど、「活字」とは「まとまった文書」という意味であり、「若者よ、まとまった文書を読め」という主張だというのは納得できた。でも、それって、冒頭の「あまり問題視しない」ことにしていた部分ではないのか。
拙稿では、これまで「活字」を「媒体」と考え、「紙」と「電子媒体」の媒体としての優劣の問題[1][2]、著作権の問題[2]、作られるプロセスの問題[3]を扱ってきた。しかし、読み方(読み手の態度)の問題と考え、「活字離れ」を「長いまとまった文書を読まないこと」とする方がすっきりする。結論についてはもう少し考えてみたいので、新しい稿を起こして記すことにさせていただきたい。
(12/14修正)
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参考文献
[1]:「青空文庫の読み方(活字離れその3)」
[2]:「本の形態(活字離れその2)」
[3]:「活字離れ」
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コメント
「コラム:活字離れ」について、こちらにお返事させていただきます。
まず、このコラムは「活字を読め」という主張ではありません。「メールや掲示板を見てるから活字は十分読んでいる」というのは間違いだという主張です。(つまり、「活字なんか読まなくてもいい」という意見は否定していません。)
そして、本というのは「一方的であること」と「長いこと」と「文章だけであること」が重要であって、紙に書いてあるかディスプレイに表示されるかということはまったく関係がない、という主張です。ですから、たとえ本であっても、マンガも写真週刊誌も電話帳も同様に活字を読んだことにはならない、ということです。
そして、Webや携帯メールは技術的には確かに本の代わりにできるかもしれません。しかし、それを使う人は、本を書こうとして携帯メールを使っているわけではありません。もともとやろうとしている事が違うのです。技術的には違いはなく、役割に違いがあります。
補足ですが、Web黎明期に一番たくさんつくられた、いわゆるキラーアプリケーションは「自己紹介」でした。自分の顔写真を貼って、所属や趣味や特技などを写真混じりで書いたものです。その時代からWebの特徴は「文字だけでなく絵も出ること」でした。
投稿: iwatam | 2003.12.12 01:19
コメントありがとうございます。
>「メールや掲示板を見てるから活字は十分読んでいる」というのは間違いだという主張です
は了解しました。つまり、
「メールや掲示板は『活字離れ』という言葉の『活字』、すなわち、まとまった文章ではない。したがって、メールや掲示板を読み書きしても『活字離れ』でないとは言えない」
という意味ですね。本文を修正しておきます。
本質が「まとまった文書」か「細切れの文章」かの違いであるというのは慧眼だと思いました。確かにそれでいくと、
活字でないもの:
漫画、雑誌、普通のメール、掲示板、メール雑誌、blog
活字であるもの:
小説、Web小説、青空文庫のテキスト、メールで届いた小説、[Web上の]官公庁の報告書、[Web上の]標準化文書
と直感どおりに分かれます。ただし、「文章だけであること」は必ずしも「活字」か否かの判定では不要のように感じます。上で試みた分類でも文章だけであるかどうかは関係なく長さだけで行って問題ないと感じました。
(挿絵のある小説や政府の白書などは「活字」とは言えないというお考えであれば、上の分類は誤りになりますが、私は「活字に含む」と思っております。いかがでしょう)
投稿: ばぐ | 2003.12.12 12:41
よく考えてみると、やはり誤解していたようです。「活字離れ」とは読み手の問題、つまり、受容側の態度の問題という視点が抜けていました。
つまり、「活字」とは「まとまった文書」という意味だというのは誤りで、「活字」とは「まとまった文書を読むこと」と考えたほうが、良いことに気づきました(ちょと解りにくいので、表現を変えて、「活字離れ」とは「まとまった文書を読まない」ことと定義します)。
上の例でいくと、同じ政府の白書でも、「パラパラとページをめくって図を見るだけ」は「活字ばなれ」。「全体をきっちり読む」ことは「活字ばなれ」でないと考えたほうが適切です。
そこまで考えて、「一方的」か「双方向」かに拘っておられた理由がやっと判りました。双方向の場合は時間的に「まとまった文書を読む」ことは不可能で、「細切れの文章を読む」ことになる。つまり、「双方向」は必然的に「活字離れ」を引き起こすことになるということですね。
投稿: ばぐ | 2003.12.12 18:05
なるほど。「読む」というところに重点を置けばよりわかりやすくなります。これには気づきませんでした。
実際には技術文書や白書などはグレーゾーンだと思っています。「○○は~」「××は~」と互いに関連のない細切れの文章が並んでいるだけのことも多いからです。基本的に、必要に応じて部分的に読めばいいものは「まとまった文書」ではないと考えます。
なお、「文章だけである」というのは少し言い過ぎでした。「文章がメインである」とでも書いた方がよかったかもしれません。写真週刊誌のような例を除きたかっただけです。
投稿: iwatam | 2003.12.14 16:17
> 技術文書や白書などはグレーゾーンだと思っています
はい。それは同感です。
「長いまとまった文書」という意味では、同じ技術文書、例えば利用者マニュアルでも、チュートリアルとリファレンスでは性格が違います。チュートリアルは最初から順番に読んで概念を理解することを要求する(部分を含む)と思いますが、リファレンスは「必要に応じて部分的に読めばいいもの」であり、最初から順番に読むべきものではありません。
おかげさまでだいぶすっきりしてきました。ありがとうございます。
投稿: ばぐ | 2003.12.14 20:43