2003.12.15

活字離れその5

「活字離れ」をキーワードにして検索してみると、「活字離れ」とはだいたい次のような論拠に基づいているようである。

  • 本が売れないこと
  • 新聞が売れないこと
  • アンケート調査の結果

気になったのは「活字離れ」の定義を明確にせずに論じているものがほとんどであることで、アンケート調査の調査項目に「活字離れ」という言葉を使っているものですら、「活字離れ」という言葉を規定していない。これでは人によって違う意味で答えていそうだ。

もう一つ気になったのは、「新聞」を読まない(売れない?)ことを「活字離れ」と言っている場合があることである。特に新聞社が「活字離れ」という言葉を使う場合はほとんど新聞を読まないことであった。こうなってくると、自分のところの商売がうまく行かないことを「活字離れ」という言葉で呼んでいるのではないかと思えてくる。

活字を読まないで何をしているかと言えば、「テレビ」と「漫画」をあげているところがほんとだが、実はどちらも売り上げが減少しているらしい。一体、「活字離れ」がほんとうに発生しているのかどうかから考え直したほうが良いかもしれない。

2003.12.11

活字離れその4

前回の記事で「活字離れ」という言葉の意味が釈然としなくなってきた。そこで、Google で検索してみたところ、下記の記事が意味を再確認するために有効のように感じたので取り上げてみる。

コラム: 活字離れ

前半部分は、ネットと本の比較を行っている。「機能的には大差ない、使われ方の問題(違い)だ」というのが著者の主張だろう。双方向性の問題はネットだからと一概に言えることではなく、媒体やサイトの性格(膨大な文書を持つ技術情報のWebサイトとメールや掲示板では性格が違うだろう)によって異なると思われる。

しかし現状では本がすべての情報を文字で表現しているのに対して、Webは絵やレイアウトなどの視覚に訴える部分が大きい。そして双方向のコミュニケーションツールであるから文章量はどうしても少なくなる。だから「現状のWeb コンテンツのほとんどは本の代わりにはならない」というのは正しい。目指しているものが違っているからだ。

Webが「絵やレイアウト」を自在に扱えるようになったのは最近のことであり、それまでは本(雑誌を含む)以上に文字主体の代物であった。実際、引用元のページも、このページも文字ばかりである。使われ方という意味では、Webができた当初から今日まで(サイトの性格にもよるが)「文字」主体のメディアだし、これからもそうだと思う。本質は、絵と文字の比率の問題ではなく「まとまった」文章か「細切れ」の文章かという違いの問題らしい。

結論。「活字を読め」というのは「まとまった文書を読め」ということであり、いくらチャットやメールに精を出してもそれは活字離れを食い止めていることにはならない。しかしだからといってネットでは活字離れを食い止められないというのも間違いだ。内容によっては十分活字の代わりになる。

つまり、「活字離れ」とは「長いまとまった文書を読まない」ということである。チャットやメールを読み書きすることは確かに「活字」を扱っていることになるが、だからといって「活字離れ」を免れているわけではない。単に読むか読まないかではなく、どのように読むかという読み方の問題である。「紙」か「電子媒体」か、オンラインかオフラインか、素人の書いた文章かプロの書いた文章かの違いでもない。何等かの媒体に書かれた「長いまとまった文書」があり、それを長いまとまった文書として読むことにより始めて「活字離れ」でない状態になる。

※尚、著者は得失、善悪の判断は行っていない。従って、以下の部分は誤解であった。(12/14加筆訂正)
この部分が著者の主張らしい。なるほど、「活字」とは「まとまった文書」という意味であり、「若者よ、まとまった文書を読め」という主張だというのは納得できた。でも、それって、冒頭の「あまり問題視しない」ことにしていた部分ではないのか。

拙稿では、これまで「活字」を「媒体」と考え、「紙」と「電子媒体」の媒体としての優劣の問題[1][2]、著作権の問題[2]、作られるプロセスの問題[3]を扱ってきた。しかし、読み方(読み手の態度)の問題と考え、「活字離れ」を「長いまとまった文書を読まないこと」とする方がすっきりする。結論についてはもう少し考えてみたいので、新しい稿を起こして記すことにさせていただきたい。
(12/14修正)

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参考文献
[1]:「青空文庫の読み方(活字離れその3)
[2]:「本の形態(活字離れその2)
[3]:「活字離れ

2003.12.10

青空文庫の読み方(活字離れその3)

以前の記事「本の形態(活字離れその2)」では、本はPDAで読むべしと書いたが、青空文庫のテキストは何も電子媒体でなくても読めるらしい。

aozora blog: 100円ショップの青空文庫

できばえも良いようです。これだったらPalmで読むよりいいかもしれない。

ところで、青空文庫のテキストをPCで読んだら活字離れなのか?製本したものを読んだら?もしかしたら、活字離れって単純に「漫画を読むこと」なのかもしれませんね…

2003.11.19

本の形態(活字離れその2)

前回の活字離れの話は自分でも何を言ってるのかよく判らないような話(でも、完全に間違っているとも言い切れないと感じたので残してある)だったので、今度は全然違う切り口で書いてみたい。

私は最近 Palm(正確には IBM の Workpad c3)で通勤途中に本を読むことにしている。以前は文庫本を持ち歩いていたのだが、Palm のほうが小さくて持ち運びに便利である。字が読みにくいかと思ったが、低解像度なりに字を大きく表示すれば良いだけで何の問題もなかった。

問題は Palm で何を読むかだが、オンラインデータ化された本は実は大量にある。例えば日本では青空文庫などの団体がPDSになった著作をボランティアを動員してオンラインデータ化しているのである。関係者各位の努力に敬意を表したい(いい時代になったものです)。しかし、新刊書についてはデータで販売されているものはまだ稀であると思う。しかたがないので通常の本の形で買うのだが、紙媒体で買った本で文庫本より大きなものはほとんど積ん読になってしまっていて、なかなか読めないでいる。

本は木材資源を大量に消費する紙という媒体で作られており、再利用も大変である。古本屋という本を再利用するための仕掛けが昔からあるが、古本については著作者に利益が還元しないシステムになっていることが気になっていた。読まない本は積極的に古本屋に持っていって他の人の読んでもらったほうが地球に優しいと思うのだが、著者には優しくない(著者に還元するシステムができれば良いのですが)。

古本の取引を著者に還元するシステムは、いままでできなかったものが明日急にできるようになることはなさそうである。それよりはデータの形で本が販売されたほうが木材消費量は減るかもしれない。もっとも不正コピーをどう防止するかの問題があるのだと思うが。

2003.11.07

活字離れ

「活字離れ」という言葉がある。世の人が本を読まなくなった(買わなくなった?)ことを言うらしい。ここで言う「活字」とは、「鉛などで作られた一文字を印字するための自由に組み合わせて文章を印刷可能な印鑑のような形をした版」の事ではない。最近の進歩した印刷技術では本物の活字などは使っていなくて写植(写真植字?)機を使うのである。つまり、巨大なプリンタ(または非常に高精細なプリンタ)で印刷するのだと思っても大きく間違ってはいないだろう。従って、「活字」とは所謂フォントの事だと思えば良い。

しかし、活字でない手書きの文字のほうこそ最近みなくなっているような気がする。インターネット上の情報もほとんどは文字、すなわち「活字」の情報である。揶揄されることの多い携帯メールも「活字」の情報でのやりとりである。今日ほど「活字」が席巻している時代はかつてないであろう。

では、「活字離れ」ってなんなのだろう。「本」という形態になったものを読まないという意味なのだと解釈できる。「本」とは著者がいて、編集者がいて、さらにDTPオペレータ(昔は写植工と言った?)などを経て作られる商品である。商品である以上、企画会議などを経て作られている場合も多いだろう。特長としては、複数の人(そのほとんどはプロ)の目を経て作られていることが挙げられる。

つまり、「活字離れ」とは、従来のきっちりした意見表明の方法(代表としては本)が次第に好まれなくなり、フィルタを通っていない個人(多くはアマチュア)の意見がダイレクトに流通することが増えたという意味ではないのだろうか。

もしそうなら、なにやらオープンソースとかクリエイティブコモンの運動にも通じるところがあるような気がするのですが…

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